2026年08月30日
*本文:ローマ書3章26節
神様は愛の神様であると同時に、公義の神様です。罪人を愛するからといって、その罪を何の代価もなく見過ごされる方ではありません。もし神様が公義の基準を崩されるなら、私たちは何をもって善悪を判断すればよいのでしょうか。神様はこの世界を公義によって創造し、治めておられる方です。だからこそ、人間の不義に対して怒りを示されます。しかし同時に、その怒りの中から私たちを救い出してくださる恵みの神様でもあります。パウロはこの二つ、すなわち神様の公義と愛を十字架の中に見たのです。
罪人が義と認められるという「義認」は、人間の常識では非常に理解しにくいものです。普通なら、罪を犯した者はその罪の代価を支払わなければなりません。しかし、パウロ自身が迫害者であったにもかかわらず神様に呼ばれ、赦され、用いられたことで、この驚くべき恵みを実際に経験しました。「あなたは罪人である。しかし判決は無罪である。」これは律法的な視点だけでは理解できません。一言で言えば、これは愛です。神様は御子を通して、「罪と罰」だけではなく、「罪と赦し」という新しい恵みの世界を開いてくださったのです。
アダムの堕落以降、人間はそのままの姿では神様の御前に進み出ることができなくなりました。レビ記に記されているいけにえの制度は、その隔たりの深刻さを示しています。傷のない動物が犠牲となり、その血が流されました。それは神様が残酷だからではありません。罪には代価が伴い、公義が成り立たなければならないことを示すためです。私たちがこの公義を理解しなければ、十字架の意味も理解することはできません。
レビ記16章の贖罪の日には、人々の罪が山羊に負わせられ、その山羊が荒野へ追いやられました。これは後に来られるキリストの姿を指し示していました。イエス様は私たちのすべての罪を背負い、宿営の外であるゴルゴタへ行かれました。バプテスマのヨハネがイエス様を「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだように、主はイザヤ53章の預言を成就されました。私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれ、私たちが受けるべき刑罰をその身に負われたのです。これによって、神様の公義は崩されることなく、私たちが義と認められる道が開かれました。
そして、このキリストの犠牲は、旧約のいけにえとは決定的に違います。大祭司は毎年、動物の血を携えて聖所に入らなければなりませんでした。しかしイエス様は、ご自分の血によって「ただ一度」永遠の贖いを成し遂げられました。主の血は私一人の罪だけでなく、世のすべての罪を担うのに十分でした。過去、現在、未来のすべての罪を担われ、もう繰り返して犠牲をささげる必要のない完全な贖いを成し遂げてくださったのです。
さらに、キリストの血は私たちの罪の問題だけでなく、私たちの良心まできよめます。罪のゆえに人間は神様の御前に立つことを恐れ、良心の呵責と恥を抱えていました。しかし、イエス様の血によってその良心が洗われ、私たちは大胆に神様の御前へ進み出ることができるようになりました。神様と人間の間にあった隔ての壁は取り壊され、敵対関係は和解へと変えられました。これが主イエスの血の力であり、十字架の恵みです。
ですから、十字架は神様の愛だけを示す出来事でも、公義だけを示す出来事でもありません。そこでは神様の愛と公義が完全に出会っています。主はゲツセマネで「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを」と祈り、最後まで従順の道を歩まれました。そしてその従順を通して、神様はご自身が義であることを示すと同時に、イエスを信じる者をも義と認めてくださいました。ですから私たちは、自分の行いや功績を誇るのではなく、ただキリストの十字架とその血による贖いを信じ、感謝しながら神様の御前に進み出る者となりましょう。