2026年03月29日
*本文:ヨハネの福音書 15章18-19節、第一ヨハネの手紙 3章13-16節
私たちは今、「憎しみ」という問題を見ています。その根は何でしょうか。それは「高慢」です。人は本来、神を愛し、隣人を愛するように造られました。しかし人は、神のようになろうとする高慢によって、その関係を壊してしまいました。サタンは「別の知識」を与え、「神のようになれ」と誘惑しました。これが罪の始まりであり、堕落の根です。高慢こそが、すべての罪の出発点なのです。
この高慢に対して、イエス・キリストはまったく逆の道を歩まれました。キリストは神と等しい方でありながら、それに固執することなく、ご自分を低くし、ついには十字架の死にまで従われました。世の目には弱さに見えるその姿こそが、神の勝利の道でした。主は従順によって高慢を打ち破り、愛によって憎しみを打ち破られたのです。この御子を通して、神がどのようなお方であるかが明らかにされました。
では、私たちの中にある憎しみはどこから来るのでしょうか。創世記4章に出てくるカインの姿に、それがはっきりと表されています。カインの罪は妬みと嫉妬ですが、その根には神との関係の破れ、すなわち高慢があります。神との関係が歪むと、その影響が人との関係にも広がり、やがて憎しみとなって現れます。私たちの中にも、同じようにその罪の性質が流れているのです。
また、カインの問題は信仰の欠如にもありました。アベルは信仰によってささげましたが、カインにはその信仰がありませんでした。私たちは祈るとき、ささげるとき、神が受け入れてくださることを信じているでしょうか。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。信仰とは、神が生きておられ、求める者に報いてくださる方であると信じることです。この信仰が失われるとき、心には不満や怒りが生まれ、やがて憎しみへと変わっていきます。
さらに私たちは、現代の世界がどれほど憎しみに満ちているかを見なければなりません。文化や言葉、環境の中にさえ、人を傷つけ、攻撃する要素があふれています。私たちの心の中にも、いつでも人を傷つけてしまうような思いが潜んでいます。しかし聖書は語ります。キリストは私たちの罪のために刺され、その苦しみを通して私たちに平安と癒やしを与えてくださいました。十字架は一見、敗北のように見えますが、それは神の救いの道であり、いのちの道なのです。
だからこそ、私たちは自分の中にある憎しみをそのままにしてはいけません。主は「罪を治めなさい」と語られました。私たちはその憎しみを捕らえ、砕き、手放していかなければなりません。世が私たちを憎んでも驚く必要はありません。しかし、私たちは兄弟を愛することによって、死からいのちへと移された者です。キリストが私たちのために命を捨ててくださったように、私たちもまた、その愛に応えて生きる者とされているのです。これが十字架の道であり、私たちが歩むべき信仰の道なのです。