2026年03月15日
*本文:マタイ26章31~46節
マタイによる福音書 26章31–46節(口語訳)
31
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、
「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずくであろう。
『わたしは羊飼を打つ。すると羊の群れは散らされるであろう』
と書いてあるからである。
32
しかしわたしはよみがえった後、
あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
33
ペテロが答えて言った、
「たといみんなの者があなたにつまずいても、
わたしは決してつまずきません」。
34
イエスは彼に言われた、
「よく言っておく。
今夜、鶏が鳴く前に、
あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」。
35
ペテロは言った、
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、
あなたを知らないなどとは決して言いません」。
弟子たちもみな同じように言った。
36
それからイエスは弟子たちといっしょに
ゲツセマネという所に行き、
彼らに言われた、
「わたしが向こうへ行って祈っている間、
ここにすわっていなさい」。
37
そしてペテロとゼベダイの子二人とを連れて行かれたが、
そのときイエスは悲しみ悶え始められた。
38
そのとき彼らに言われた、
「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである。
ここにいて、わたしと共に目をさましていなさい」。
39
そして少し進んで行き、
地に伏して祈って言われた、
「わが父よ、
もしできることでしたら、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの思いではなく、
みこころのままになさってください」。
40
それから弟子たちのところに来てみると、
彼らが眠っていたので、
ペテロに言われた、
「あなたがたはわたしと共に
一時間も目をさましていることができなかったのか。
41
誘惑に陥らないように、
目をさまして祈っていなさい。
心は熱しているが、
肉体が弱いのである」。
42
イエスはまた二度目に離れて行き、祈って言われた、
「わが父よ、
もしこの杯を飲まないでは過ぎ去らないのでしたら、
みこころのままになさってください」。
43
それから戻って来てみると、
弟子たちはまた眠っていた。
まぶたが重くなっていたのである。
44
そこで彼らを残して再び離れて行き、
同じ言葉で三度目の祈りをされた。
45
それから弟子たちのところに来て言われた、
「まだ眠って休んでいるのか。
見よ、時が近づいた。
人の子は罪人たちの手に渡されるのである。
46
立ちなさい。
さあ行こう。
見よ、わたしを裏切る者が近づいている」。
今日の御言葉の題目は「ゲッセマネの祈り」です。
今日は、イエス様と三人の弟子たちがゲッセマネの園で祈られた場面を見ていきたいと思います。
ここには二つの対照的な場面が記されています。一つは非常に自信に満ちたペテロの姿、もう一つは大きな苦しみに直面しておられるイエス様の姿です。マタイはこの二つの姿を並べて描いています。ペテロは強く勇ましい姿で描かれているのに対し、イエス様は弱く見え、悲しみの中で祈られる姿として描かれています。
ヘブル人への手紙5章7節には、「激しい叫びと涙をもって神に祈られた」と記されていますが、まさにこの場面がそれです。マタイにとって、この二つの姿は非常に深い意味を持っていたのでしょう。しかしこの出来事は、十字架の後に書かれた記録です。結果的にどうなったでしょうか。ペテロは三度イエス様を否認して去りました。しかしイエス様は弱く見える姿の中で、絶対的な従順によって死を打ち破られました。
ここから私たちは大きな教訓を学びます。私たちは神の前で強くあろうとするのではなく、むしろ弱くへりくだった姿を持つべきです。自信に満ちた態度では神の力は現れません。弱さの中での従順こそが、神の力が現れる土台なのです。
ゲッセマネとはどのような場所でしょうか。それは油を搾る場所、すなわち油搾り場です。そこで搾られた油は王の頭に注がれ、王の戴冠式に用いられました。
なぜ多くの場所の中で、イエス様はゲッセマネで祈られたのでしょうか。本来そこは、キリストの栄光が現れるべき場所だったからです。本来ならば戴冠の栄光が現れるはずでした。しかしバプテスマのヨハネが去り、その使命が果たされなかったため、イエス様は苦難の主として進まなければなりませんでした。その結果、この場所は栄光の場ではなく、血の涙を流す祈りの場となったのです。イエス様はここで祈られました。
最初の祈りは完全な孤独の中での祈りでした。絶対的な孤独の中で神と出会われたのです。私たちの信仰もこの点を大切にしなければなりません。イエス様の孤独の場所、ひとりで神と向き合う場所をつかむとき、私たちは主と真に一つになることができます。苦しいときには徹底的に苦しみ、孤独なときには徹底的に孤独であることを受け入れられたイエス様の姿は、非常に美しいものです。多くの人は苦しみや孤独を避けようとしますが、イエス様はそれを避けませんでした。十字架の苦しみのとき、痛みを和らげる酸いぶどう酒が差し出されましたが、イエス様はそれを拒まれました。それは苦しみを軽くするためのものでしたが、イエス様はその苦しみをそのまま受け入れられたのです。
キリスト教信仰において、苦難を正しく理解することは極めて重要です。イエス様は人類の罪を担い、神の前に立たれました。
そしてイエス様の祈りは次第に変化していきます。最初の祈りでは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。ここには人間としてのイエス様の姿があります。しかしその祈りの後には、「しかし、わたしの思いではなく、御心のままに」という絶対的な従順がありました。信仰とは、自分の願いが神の願いへと変えられることです。これは水がぶどう酒に変わるような大きな転換です。二度目の祈りでは、「もしこの杯を飲まずには過ぎ去らないなら、御心のままに」と祈られました。この杯とは死の杯です。この祈りのとき、イエス様の心から死の恐れが消えていました。三度目の祈りも同じでした。
使徒パウロが「死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と言ったように、イエス様は絶対的な従順と信仰によって死の恐れに打ち勝たれました。ゲッセマネとゴルゴタを対比してみると、ゲッセマネは霊的な十字架を負われた場所であり、ゴルゴタは肉体的な十字架を負われた場所です。より深い苦しみは霊的な十字架です。イエス様はこの場所で既に死と恐れとサタンに勝利されていました。最後にイエス様は「立ちなさい。さあ、行こう」と言われました。弱く見えたイエス様は、死を乗り越え立ち上がられたのです。
私たちの信仰もこのイエス様の姿に倣うべきです。絶望は絶望で終わらず、死は死で終わりません。イエスの中での涙、苦しみ、絶望は、やがて復活の希望と喜びに変えられるのです。私たちもこの道を歩み、苦難の中で真のいのちを味わう者となり、主に従う弟子として勝利の道を歩むことを願います。



