2026年02月01日
*本文:Iコロサイ1章15-18節
イエス様が「すべての名にまさる名」を持つ正当性は、宇宙の創造主である神の御子としての本質に由来します。パウロはこれを「相続人」と「神の右側におられる方」という二つの重要な概念で強調しています。イエス様は復活、昇天後、神様の右に座し、その卓越した地位、資格、名、そして実質的な権威を神様から直接受けられました。多くの兄弟の中の長子として、イエス様は「すべての造られたものより先に生まれた方」なのです。これはパウロが自身を「月足らずで生まれた使徒」と表現したことと同じ文脈で理解できます。
「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」(コロサイ 1:16)。
イエス様がすべての権力者の上に立ち、すべての被造物が御子のためにあるという解釈は、聖書に多くの予表的事例を見出すことができます。エフライムとマナセ、エサウとヤコブ、そしてダビデの物語がその例です。特に創世記のヨセフの物語は象徴的です。11番目の息子であるヨセフは、マタイ20章のぶどう園の労働者のたとえ話における「11時に来た者」と重なります。このたとえ話は、遅く来た者にも与えられる神の恵みを表しているのです。ユダヤ人の時間で「11時」は、私たちの時間で午後5時を指します。そして、この午後5時に来た者が「最初に」立てられたのです。この決定を行ったのは誰でしょうか? 主人です。この主人は神様を象徴しています。ですから、この選びに対して誰が非難したり、「間違っている」と言うことができるでしょうか?ここで示されているのは、後の者が先になり、つまり神様によって長男として立てられるという原則です。同じように、神様はイエス様を「長男」として立てられました。この世界を創造された創造主であり、この世界の主である神様が、イエス様を万物の一番上に立てられたのです。そこには絶対的な正当性があります。創造主としての神様の権威に基づいて、イエス様が万物の主とされました。「そのようなことがあり得るのか」という疑問に対して、神の歴史はその数え切れない実例を示しています。
「すべての造られたものより先に生まれた方です。16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました」(コロサイ 1:15a-18)。
この聖句の引照箇所はたくさんあります。
「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える」(イザヤ 43:21)。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」(ヨハネ 1:3)。
「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました」(ヘブル 1:2)。
「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです』」(ヨハネ 8:58)。
「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」(ヨハネ 17:5)。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Iコリント 15:20)。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザヤ 9:6)。
「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(Iヨハネ 5:20)。
「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる」(黙示録 3:14)。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録 22:13)。
キリストは最初であり最後、始めであり終わりと称されています。キリストが最初とされるのは、神様が長子として立てられたからです。これが「上からのキリスト論」の核心です。一方、「下からのキリスト論」は、キリストが自己を空しくし、十字架の死に至るまで従順であることで救い主となられたことを説きます。つまり、神様によって立てられただけではなく、御父の御言葉への従順と自己犠牲によって救い主としての地位が確証されたのです。そして復活によって、キリストであることを明らかにし、眠った者たちの初穂となられました。
神の降臨とイエスによる万物の創造を理解するために、私たちはヨハネ1章1節に立ち返る必要があります。この聖句は、これらの深遠な真理を解き明かす鍵となります。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)。
「初めに誰がおられたのか」という問いに対し、ヨハネの福音書は「ことば」であると答えます。この第四福音書は、他の共観福音書より約100年後に書かれたものであり、イエス様についての理解をより完全なものにするために記されました。ヨハネの福音書はこう始まります。「初めにことばがあった。」そして、「ことばは神とともにあった」と記されています。この「ことば」が神と共におられたとは、一体どういう意味なのでしょうか?何が創造以前から存在していたのでしょうか? 答えは「ことば」です。この「ことば」は、ギリシャ語で「ロゴス (λόγος, logos)」、中国語では「道 (dao)」と訳されています。これは、この世界が創造される前から、理(ことわり)、法則が存在していたことを示しています。この世界は偶然の産物ではなく、緻密な法則と計画に基づいて創造されました。大気圏を少しでも外れると、生命は生存できません。また、地上では人間と植物が酸素と二酸化炭素の循環を通じて互いを支え合っています。この循環が崩れれば、人間は生きていけなくなるのです。神様は時間と空間、そして自然界のすべてを完璧な秩序のもとに創造されました。この世界を支配する理と法則こそが、ギリシャ語で「ロゴス」、中国語で「道」と呼ばれる「ことば」です。創造の初めから存在したこの「ことば」が、目に見える形となって現れたのです。これこそが創造の本質なのです。
それだけでなく、初めに神とともにあったその道が、私たちの前に現れたのです。それは、まるで鷲が天から舞い降りてくるように、道が天から地上へと降りてきたのです。中国語では、これを「道成人身」と表現します。「道(御言葉)が人としての体をまとって来た」という意味です。英語では’incarnation’(受肉)と呼ばれるこの出来事により、永遠の真理が人の姿をまとって現れたのです。その方こそが、イエス・キリストです。イエス・キリストは神の御子であると同時に、神のことばそのものでもあります。初めにあったことばが、歴史上の実在の人として生まれたのです。このように見るとき、イエス様は真に人となられた神であり、完全な人間でもありました。イエスは御言葉に完全に従って生き、その約束をすべて成就し、ついにはことばそのものとなられたのです。イエス様はヨハネの福音書において、このように語られました。「それで、彼らはイエスに言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。』32 それで、イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。』34 そこで、彼らはイエスに言った。『主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。』35 イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません』」(ヨハネ 6.30-35)。イエス様は、私たちの魂を養う「いのちのパン」であり、永遠に渇きを癒す「命の水」です。また、真理そのものが人となって現れた方でもあります。そして、この真理は初めから存在していました。だからこそ「すべての造られたものより先に生まれ、万物は御子によって造られた」という聖書の言葉が、この上なく自然で完全な表現であると私は理解しています。この真理の完全性と一貫性により、私には教義的な分裂や疑問は一切ありません。それは、あまりにも明快な事実だからです。これが私の揺るぎない信仰告白です。使徒たちの言葉には矛盾も不自然さもなく、むしろ驚くべき正確さと美しさを持っているのです。