2025年07月21日
*本文:コロサイ人への手紙 3章18-4章18節
†《コロサイ1章》にがキリスト論を語っているとすれば、《2章》にはそうした教理が伝えられるに至った教会の具体的状況を説明しています。では、《3章》にはどのような内容に焦点を当てているのでしょうか。ここで語られているのは倫理です。すなわち、先に教えられた教理的真理に基づいて、信徒が実際の生活においてどのように生きるべきかという実践的指針です。この倫理的教えは、「キリストの中でよく生きなさい」という中心的メッセージとすべてがつながっています。使徒パウロは、信徒たちが誤った思想や偽りの教えによって信仰が揺らぐことなく、私たちの人生のあらゆる問題に対する唯一の答えであり、神の奥義であり、かけがえのない宝であるキリストを見上げるよう勧めています。さらにパウロは、キリストの生き方を模範として日々の生活を送ることの重要性を強調しています。これが先週学んだ《コロサイ3章17節》までの内容です。
《コロサイ3章18節から4章1節》にまでには、三つの基本的な人間関係についての教えが記されています。具体的には、1)夫と妻の関係、2)子供と親の関係、そして3)奴隷と主人の関係です。ギリシャ語には「オイコス」(Oikos)という言葉があります。これは家族 (family) と家 (house) の意味を融合させた言葉と理解できます。この「オイコス」には男性と女性、息子と娘が含まれ、当時の社会構造においては奴隷たちも含まれていました。さらに広義では家畜も含まれることがありますが、主に家畜を除く「家の構成員すべて」を指す言葉です。この概念に相当する別の表現として「眷属(家の人々、household)」という言葉があります。例えば、イザヤ書56章7節には「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ」という記述があります。ここでの「わたしの家 (house)」は「神の家」あるいは「主の家」を意味していますが、同時にそこに属している人々も示しています。《コロサイ3章18節から4章1節》にまでの教えは、まさにこの神の家に属する人々に向けられた実践的な生活指針なのです。コロサイ書のこの重要な教えは、《エペソ5章22節から6章9節》ににおいて、より詳細かつ集約的に記録されています。
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」(コロサイ 3:18)
この箇所から始まる三つの人間関係についての教えには共通点があります。「妻」という言葉は「夫」という言葉がなければ存在し得ず、「子供」も「親」がなければ存在し得ません。「奴隷」と「主人」も同様です。これらは互いが分離しようとしても完全に切り離すことのできない関係なのです。
もう一つの共通点は、3つの関係について教える際、すべて弱い者に対してまず勧告する点です。パウロは夫よりも妻にまず勧告し、親よりも子供たちにまず勧告し、主人よりも奴隷にまず勧告します。この中には深く驚くべき意味が込められています。これを理解すれば、深い世界が開かれます。
使徒パウロは、これらすべての関係の根本的なモデルはキリストと教会の関係にあると教えています。教会がまずキリストに仕えることによってこそ、キリストの教会は成立します。それと同様に、パウロが夫よりも先に妻に勧告した理由は、家庭の基礎が妻にあるという洞察からです。つまり、妻が夫に従うことにより、健全な家庭関係が築かれるという真理を示しています。他の関係性も同じ原理に基づいています。子供たちが親に従順であるとき、奴隷たちが主人に誠実に仕えるとき、すべての関係は調和と秩序をもって始まるのです。この教えの視点は非常に福音的なものであり、世俗的な考え方とは一線を画す驚くべき教えです。
キリストと教会の関係は、私たちの信仰生活の根本的基盤です。この根本原理を私たち信徒の日常生活に適用し、実践することが求められています。たとえ関係の形態や表現が時代や状況によって変化するとしても、この本質的な教えに忠実に従って生きるならば、私たちは美しく深遠な霊的世界を経験しながら人生を歩むことができるのです。
「18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。」 (コロサイ3:18-19)
夫たちは妻を愛し、妻に対して辛く当たってはいけないと言いました。
「20 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。21 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。」 (コロサイ 3:20-21)
父親は、子どもたちを苛立たせてはいけないとあります。そうするとき、子どもたちが落胆してしまうからです。
「奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。」 (コロサイ 3:22)
奴隷たちは主人に従うことを「主に対してするように」行いなさいということです。
「23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。25 不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。」(コロサイ 3:23-4:1)
この箇所をめぐって、多くの人々が聖書を批判し、さらには忌避感を抱く人々まで現れました。奴隷の義務だけを強調する教えがあまりにも一方的だという批判です。しかし、そのような解釈は本質を見誤っています。これは非常に深遠な教えなのです。パウロが伝えようとする核心は何でしょうか。それは、主人と奴隷の関係を真に美しいものへと変革する上で、実は主導権が奴隷の側にあるという革命的な視点です。
この教えは、従来の価値観とは根本的に異なる、全く新しい世界観を反映しています。まるで、古い天と地が巻物のように巻き取られて消え去り、新しい天と地が広がるようなものです。私たちが長らく当然と考えてきた価値体系が崩壊し、全く新しい価値基準が登場したのです。従来の価値観においては、「仕える者」がすなわち「奴隷」でした。しかし、キリストによってもたらされた新しい価値観では、逆説的に「仕える者」こそが真の「主人」となります。この驚くべき逆転の発想が、使徒パウロの教えの根底に深く浸透しているのです。
《エペソ6章》にでは、これらの教えに続いて、使徒パウロがさらに強調する重要な真理があります。「主人であれ、しもべであれ、誰であれ、すべての人は主の前に平等に立っている者である」という視点です。つまり、社会的地位や立場に関わらず、各人がどれだけ善を行い、どれだけ他者に仕えたかを、主が同一の基準で公正に評価され、その行いに応じて報酬と裁きを下されるということです。
この教えの中に、私たちは使徒パウロに宿る美しいキリストの香りと彼の卓越した洞察、そして従来の価値観を覆す革新的な視点を見出すことができます。このような福音に根ざした教えは、主人に仕える奴隷たち、また社会的に弱い立場にある人々にとって驚くほど公平であり、同時に大きな慰めとなるものです。この深遠で美しい世界が開かれる場所は、生ける主への揺るぎない信頼が存在するところです。そしてその信頼に基づいて福音の教えに従って生きる場こそが、まさに 「オイコス」、すなわち「家庭」なのです。このような基本的な関係性についての教えを語った後、使徒はさらに異なる勧めの言葉へと話を進めていきます。
「 たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。」(コロサイ 4:2)
私たちはこのように生きるべきです。私たちには感謝する理由があります。
「 同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。」(コロサイ 4:3)
この御言葉の中には、「私がこのように閉じ込められた中でも伝道しようとするように、あなたがたも熱心に伝道しなさい」という使徒の切なる願いが込められています。それは同時に、彼らへの心からの勧めの言葉でもあります。
「また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。」(コロサイ 4:4)
ここで言及されている「この奥義」とは何でしょうか。それは、世の人々が目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができない、隠されている深遠な真理です。この奥義とはまさにキリスト自身を指しています。キリストは確かにご自分の地に来られましたが、あらかじめ準備されていたはずの民でさえ、その真実を理解することができませんでした。ルカの福音書24章に描かれているように、エマオへと向かう弟子たちも、主が彼らと共に歩まれていたにもかかわらず、その方が主であることを認識できなかったのです。ですから、使徒パウロは自分が牢獄から解放され、再び自由に伝道活動ができるようになり、神の奥義であるキリストを明確に示すことができるように、コロサイの信徒たちに熱心な祈りの支援を求めているのです。
「 外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。」(コロサイ 4:5)
パウロはエペソ人への手紙5章16節でも「機会を十分に活かしなさい」と勧めました。この言葉は「失われた時間(the time)」を「取り戻しなさい(redeem)」という深い意味を持っています。
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」(コロサイ 4:6)
そして続く内容は最後の挨拶です。
「…ティキコが、あなたがたに知らせます。」(コロサイ 4:7b)
新約聖書にはパウロの手紙が13通含まれていますが、その中で《ローマ書16章》にには、パウロと共に働いた多くの同労者たちの名前が詳細に記録されています。興味深いことに、《ローマ16章》にに次いで多くの同労者が言及されているのが、まさにこの《コロサイ4章》にの結びの部分なのです。ここで7節に登場するティキコは、使徒が記したこの貴重な手紙をコロサイ教会に直接届けた重要な人物です。
コロサイ書を見ると、二人の極めて重要な人物が浮かび上がってきます。それが 「エパフラス 」と「ティキコ」です。エパフラスはエペソからの派遣によって支教会を開拓した人物であり、教会が直面していた困難と信徒たちが経験していた信仰の危機を解決するために、獄中のパウロを訪ね、その切実な状況を詳細に説明した人物です。一方、ティキコはパウロの貴重な書簡を公教会に届けた伝達者でした。現代の私たちはマスメディアを通じて遠距離でも瞬時にコミュニケーションを取ることができますが、当時においては、このような伝達者が直接対面して手紙を届けることが非常に重要な意味を持っていました。この極めて重要な任務を委ねられたのが、まさにティキコだったのです。
「愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべである…」 (コロサイ 4:7a)
パウロは、ティキコの人となりを三つの重要な特質によって証しています。ティキコは第一に、深く愛される「兄弟」です。第二に、主に対する忠実な「奉仕者」です。そして第三に、主にある同労の「しもべ」となった人物です。これは実に美しい賛辞です。パウロは決して孤高の宣教者として一人で働くことなく、常に献身的な同労者たちを各地に配置し、彼らと主の愛の中で真に一つとなって協力しました。この広大な人的ネットワークを最も鮮明に見ることができるのが、ローマ16章であり、また今日の本文であるコロサイ4章なのです。
「8 ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。9 また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。」(コロサイ 4:8-9)
ここに「オネシモ」という人物が登場します。彼はパウロの13の手紙のうち最後の手紙であるピレモン書に登場する人物です。パウロの4つの獄中書簡のうち、エペソ書、ピリピ書、そしてコロサイ書はすべて公教会に宛てられ、全会衆の前で朗読され、さらに様々な教会の間で回覧された公的な書簡でした。しかし、ピレモンへの手紙は獄中書簡の中で唯一の私的な手紙です。
この手紙に記録されているオネシモは、ピレモンの僕でした。ピレモン 書の内容から推察すると、オネシモは主人であるピレモンの財産を盗んで逃亡したと考えられます。当時の社会において、主人と僕の関係は非常に厳格なものでした。僕が主人の財産を盗んで逃げるという行為は、言うまでもなく重大な犯罪でした。興味深いことに、この逃亡奴隷オネシモは、パウロが投獄されていたローマにまで辿り着いたようです。主人であるピレモンがどれほど怒っていたかは想像に難くありません。そのような状況の中で、パウロは一通の手紙を書き、オネシモ自身を通してピレモンに届けるという大胆な判断をしました。その手紙こそが、聖書に収められたピレモン書なのです。
この一通の手紙を通して、私たちはパウロが一人の魂にどのような心で接しているかを知ることができ、彼から滲み出るキリストの豊かな香りを感じ取ることができます。この手紙が伝えるメッセージのように、私たちの信仰は「キリストにあって罪の赦しを受け、神様と和解した後、兄弟姉妹にどのように接するか」という実践に深く関わっているのです。
《9節》を見ると、《ピレモン書》に登場する僕オネシモがティキコと共にパウロを訪ねてきたことがわかります。この記述から、おそらくピレモンはコロサイ教会の信徒だったと推測されます。したがって、コロサイ教会の信徒たちはオネシモをよく知っていたことでしょう。パウロは手紙と共にオネシモをピレモンのもとへ送り返し、結果としてピレモンはオネシモを赦し、和解したと考えられます。教会史の記録によれば、このオネシモはその後、福音によって人生が変革され、重要な教会指導者となったと思われます。当時、聖書が編纂されるほど中心的な存在であったエペソ教会の監督の名前にも「オネシモ」という名前が記されています。これこそが、私たちが聖書の中に見出す偉大な物語の一つなのです。本文《9節》は、パウロがオネシモをティキコと共に送り出すことを記しています。
「私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。」(コロサイ 4:10)
ここで言及されているマルコは、バルナバのいとこと明確に記されています。このマルコに関する興味深いエピソードは、第二テモテへの手紙4章11節にも登場します。パウロが冬を過ごす準備をしていた際、テモテに「上着」と「革の紙に書かれた本」と共に「マルコ」を連れてくるよう依頼しています。注目すべきは、このマルコが以前伝道地から逃亡した経緯があることです。パウロ一行がガラテヤ地方の高原地帯を越える困難な旅の際、「マラリア」という致命的な熱病に罹患する危険性がありました。恐怖に駆られたマルコは、宣教旅行の途中で逃げ出したのです。《使徒の働き15書》によれば、この出来事をめぐってパウロとバルナバの間に深刻な対立が生じ、二人は別々の道を歩むことになりました(使徒15:36~-39)。しかし、パウロは一度失望した人物であっても見捨てることなく、適切な時期に再びマルコを呼び寄せ、彼との関係を修復しようとしたのです。
そのマルコは今どこにいるのでしょうか。彼は最も孤独で息苦しい状況にあるパウロを訪ねてきたのです。軟禁状態とはいえ、鎖につながれ、看守の冷たい視線を常に感じながら過ごすパウロのもとへ、かつて逃げ出したマルコが自ら足を運んだという事実は、深い和解の証しです。
皆さんの人生に、恨(うら)みが心の奥底に根を張り、憎しみへと変わり、関係が引き裂かれてしまった相手はいないでしょうか。聖書に記されたこの感動的な和解の物語を通して、私たちも同じように赦しと和解の道を歩むことができるのです。かつて逃げ出したそのマルコがここに来ていました。
「ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼のある人では、この三人だけが神の国のために働く私の同労者です。彼らは私にとって慰めになりました。」(コロサイ 4:11)
ここに登場する「ユストと呼ばれるイエス」という人物は割礼派に属していました。「割礼派」とはユダヤ人を意味します。彼は「律法の厳格な遵守と割礼の実践が福音受容の前提条件である」と主張する神学的立場を持っていたと思われます。ところが、そのような神学的相違があるにもかかわらず、彼は獄中のパウロを訪ね、彼と共に時を過ごしていたということです。これは驚くべき歴史の記録です。そして、さらにもう一人の重要な人物の名前が記されています。
「あなたがたの仲間の一人、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。…」(コロサイ 4:12a)
エパフラスはコロサイ教会の開拓者であり、パウロを獄中に訪ねた重要人物です。先に述べられた人々と共に、エパフラスもパウロの牢獄生活を支え、世話をしていたことが窺えます。
「12b …彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。13 私はエパフラスのために証言します。彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスにいる人々のため、たいへん苦労しています。」(コロサイ 4:12b-13)
エパフラスはコロサイ教会だけでなく、近隣地域のラオディキア教会とヒエラポリス教会のためにも多大な労苦を惜しまなかったのです。
「愛する医者のルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」(コロサイ 4:14)
使徒パウロの主治医であるルカもその場にいて、獄中のパウロを献身的に看護しています。そして「デマス」という人物の名も挙げられています。彼は非常に優れた資質を持ち、初期教会の貴重な指導者の一人だったと考えられます。テモテ後書4章10節において、パウロはテモテに「デマスは世を愛してテサロニケに行った」と記しています。この記述から、デマスの出身地はテサロニケであったことが推測されます。この後の離反にもかかわらず、この時点では彼も使徒パウロが深く信頼し、愛した同労者の一人であったことは明らかです。
「どうか、ラオディキアの兄弟たちに、またニンパと彼女の家にある教会に、よろしく伝えてください。」(コロサイ 4:15)
使徒パウロは特別に「ニンパ」という人物の名を手紙に残すことを望んだようです。この人物の性別については聖書翻訳によって解釈が分かれています。英語聖書のKJVでは男性(his house)、NIVでは女性(her house)と記されています。ニンパが男性であれ女性であれ、重要なのは彼(または彼女)が家庭教会(house church)の主人であったという事実です。その家庭教会によろしくと伝えてくださいと使徒は言います。
「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。」 (コロサイ 4:16)
使徒が記したこの手紙(コロサイ書)を様々な教会が回覧するようにという指示がここに記されています。つまり、コロサイの教会だけでなく、その周辺約18〜21km離れたラオディキア教会も同様にこの書簡を読むようにということです。同時に、ラオディキア教会から届く手紙も読むよう勧めています。
「アルキポに、『主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように』と言ってください。」(コロサイ 4:17)
ここでもう一人の重要な人物、アルキポの名前が登場します。パウロは彼に対して「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」という勧告を送っています。
「私パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。」(コロサイ 4:18)
アーメン。このようにコロサイ書は締めくくられています。この手紙は教会史においてあまりにも貴重なものであるため、その一節一節を丁寧に学ぶことが必要です。この手紙に流れる深い愛と、使徒が私たちに伝えようとした真理、そして主に倣ってどのように生きるべきかについての教えと貴重な勧めの言葉を心に深く刻みながら、信仰の旅路を力強く歩んでいきましょう。お祈りします。Ω