礼拝説教

キリストにあって歩みなさい


2025年06月30日

*本文:コロサイ人への手紙2章6-19節

†今日は《コロサイ2章6節》からみことばを学んでいきましょう。この箇所で、パウロは信徒たちに「キリストに結ばれて歩みなさい」という重要な勧めの言葉を記しています。

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ 2:6)

使徒パウロは、コロサイ教会の聖徒たちに救いの深遠な世界を語っています。《使徒の働き20章28節》では、パウロがエペソの長老たちに告別の説教をした際、教会を「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」と表現しました。主は私たちの救いのために、ご自身の尊い血を注いでくださったのです。それゆえに、私たちはキリストの中に留まり続けるべきなのです。私たちはイエス様がキリストであることを知り、主として受け入れました。そうして永遠の命を得、天国への確かな希望を持つ者とされたのです。だからこそ使徒は「キリストにあって歩みなさい。主の法と真理の中で歩みなさい。主の教えとその愛の中で歩みなさい」と勧めているのです。これこそが“In Christ Jesus”(キリスト・イエスの中で)という言葉の本質的な意味です。“In Christ Jesus”という表現には非常に深い意味が込められており、私たちは《ローマ書8章》の学びでもこの言葉の深さを味わいました。使徒パウロは「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ 8:1)と宣言しました。“In Christ Jesus”(キリスト・イエスにあって)という表現は、私たちがキリストと結び合わされたという「連合」の真理を表しています。イエス様はこの神秘的な連合について、ヨハネ15章の告別説教の中でも語られました。そこでイエス様は、ご自身と私たちとの関係をぶどうの木と枝の関係に例えて、「愛の連合」を教えられたのです。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」(ヨハネ 15:4)、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ 15:9)と語られています。これこそが「愛の連合」の本質です。つまり、「キリストにとどまる」とは、「キリストの愛と真理の中に生きる」ことを意味しているのです。

「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ 2:7)

使徒は、愛する信徒たちに対して、キリストの中に深く根を張り、その土台の上に建てられ、純粋な神の御言葉に従って歩むように勧めています。そうして信仰を揺るぎないものとし、溢れんばかりの感謝をもって日々を過ごすようにと、切に語りかけているのです。神の民は常に、誘惑という激しい風浪の中で厳しい戦いを強いられます。当時のコロサイ教会も同様の試練の中にありました。だからこそパウロは、揺らぐことのないようにキリストという堅固な岩に深く根を下ろすことの大切さを強調しているのです。そして、彼らがすでに教えられた純粋な御言葉を心に刻み、信仰を揺るぎないものとすることが何にもまして重要だと説いています。

「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」(コロサイ 2:8)

パウロが《コロサイ書》を執筆(しっぴつ)した背景には、当時、空しい哲学とだましごとの教えが教会の中に蔓延していたという深刻な事情がありました。そのためパウロは、クリスチャンたちがキリストの中にしっかりと根を下ろすべきだと、強く勧めているのです。では、当時はどのような時代だったのでしょうか。それは「Greco-Roman」(グレコ・ロマン)文化において、無数の神々が崇拝され、「神々の時代」と呼ばれるほどでした。 キリスト教に挑戦する数多くの哲学的、宗教的な思想が存在していましたが、その中で最も影響力の強かったのが、グノーシス主義(Gnosticism、霊智主義)と仮現説(Docetism)でした。これらの思想が世の哲学と結びついて教会の中に侵入し、神の御言葉を自分たちの解釈で判断し、分析することで、多くのクリスチャンを惑わしていったのです。本来であれば、クリスチャンが神の御言葉によって世の知識を判断し、分析し、その善悪を見極めるべきところ、まったく逆の事態が起こってしまったのです。【この深刻な状況こそが、パウロの心を痛ませた理由でした。】
今日の時代も同様の課題に直面しています。私たちの社会には世俗的な風潮が強く渦巻いています。特に今日の若いクリスチャンたちは、様々な誘惑に囲まれた中で信仰の歩みを続けています。彼らは機会があるたびに世を懐かしみ、その魅力に目を向け、知らず知らずのうちにその流れに身を任せようとしてしまいます。それが真の美しさや永遠の価値を持つものではないと分かっていても、人間の弱さゆえに、むなしい世の風潮に流されてしまう危険に常にさらされているのです。

パウロは、人間の言い伝えとこの世のもろもろの霊に基づく教えを追い求めないよう、強く勧めています。当時の教会は二つの深刻な危機に直面していました。一つは、空しいだましごとの哲学でした。もう一つは、クリスチャンを執拗にユダヤ教の枠組みの中に閉じ込めようとする組織的な試みでした。キリストの到来は、世界的かつ宇宙的な出来事です。しかし、ユダヤ教の偽教師たちは、コロサイ教会の信徒をユダヤ教の形式と彼らの言い伝えという狭い枠組みの中に押し込めようと躍起になっていたのです。コロサイ教会がこのような深刻な挑戦に直面していたからこそ、使徒パウロは彼らに特別な注意を促したのです。

パウロは、この世の学問を「この世のもろもろの霊によるもの」と表現しました。これは、それらが究極的には空虚なものであることを指し示しています。世の学問は人を誘惑して倒すことはできても、誰一人として救うことはできず、永遠の命を与えることもできないのです。それにもかかわらず、その誘惑のささやきは絶えず私たちの心に迫ってきます。だからこそパウロは、「注意しなさい。あなたがたは、神の御子であるキリストの中にとどまりなさい」と教えているのです。神の民は堅固にキリストの中に根を張らなければなりません。そうでなければ、私たちは様々な教えの風に揺られ、転倒してしまうでしょう。神の御言葉を昼夜を問わず深く思い巡らさなければ、私たちは必ず混乱に陥ってしまいます。信仰という揺るがない岩の上に自分を立てなければ、世の流れに押し流されてしまうのです。そのため、私たちは常に信仰の上にしっかりと立ち、溢れんばかりの感謝をもって日々を歩んでいかなければならないのです。

「9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ 2:9-10)

イエス様の中には、神様の満ち満ちたご性質が形となって宿っています。「満ち満ちた」とは、器に水がなみなみと注がれているような状態を表しています。使徒パウロはこう語ります。「すべての神様の知識と知恵が満ち満ちているキリストを見なさい。キリストと一つとなりなさい。その中に根を下ろしなさい。まるで電源にプラグを差し込むように、キリストにつながりなさい」と。そうすれば、私たちは確かに満たされるのです。パウロは私たちに問いかけています。「あなたがたは今、どこに命の源を求めようとしているのですか。主の中にとどまり、主と結びつき、主とつながりなさい。そうすれば、あなたがたはすでにその中で満たされるのではありませんか」と。「あなたがたもその中で満ち足りた者となったからです」とパウロは語っています。ここには、コロサイ教会に対するパウロの驚くべき信頼を見ることができます。使徒は、たとえ彼らが完全な状態でなくとも、すでに満たされた者として彼らを見なしているのです。「あなたがたはすべてにおいて満ちているではありませんか」という彼の言葉には、信徒たちへの深い期待が込められています。これは単なる願いを超えた、彼らの内にある可能性への確信であり、同時に最高の励ましの言葉でもあったのです。

「キリストはすべての支配と権威のかしらです」と使徒は宣言しています。では、ここで語られているすべての支配(all rule)と権威(authority)とは、一体何を指しているのでしょうか。これは、この世に存在する強大な勢力のことを示しています。そこには空中の権威も含まれているのです。この世界には悪霊が満ちており、彼らは組織的な体制を持ち、その頂点には悪魔という首領が君臨しています。私たちがエペソ書を学んだ際に、これについて詳しく見たとおりです。神様に背き、敵対する勢力が存在しており、その霊的な世界には位階(Hierarchy)が存在しているのです。さらに、この悪霊たちは世の権力者たちと結託して働きかけます。より正確に言えば、悪霊たちが世の権力者たちに「取り憑いて」、あらゆる嘘と欺瞞を広げ、この世界を支配しようとしているのです。このように、私たちの住むこの世界は、霊的な戦いの真っ只中にあるのです。

神の御子が地上に来られ、人間を罪から救われたにもかかわらず、私たちはいまだにこのような霊的戦いの渦中にある世界に生きていることを、使徒は私たちに正しく理解するようにと説いています。彼は、この洗練された世界観を非常に明確に私たちに教えてくれているのです。

「キリストはすべての支配と権威のかしらです」ここで「かしら」とは、いったいどのような意味を持つのでしょうか。それは、キリストがすべてのものの上に君臨しておられるという意味です。このことは、ユダの手紙にも記されています。「またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。」(ユダ 1:6) これは、天にある悪霊、堕落した天使たち、そしてこの世の悪の権勢のすべてが、キリストの足元に従属させられるということを意味しています。主は、まさにすべての支配と権威を完全な支配下に置かれた方なのです。

すべての支配と権威の上に主はおられます。すべての霊的秩序の上に主がおられ、この世界を支配するサタンと悪魔までも制圧し、その上に立っておられるのです。ヘブル書の著者はこう記しています。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、」(ヘブル 2:14) イエス・キリストは、この地上で殺されましたが、その死によってかえって死の勢力に打ち勝たれたのです。キリストは死によって死に勝利し、復活することで暗闇の権力の上に勝利者として立たれました。そして今や、主は昇天して神の右の座におられるのです。私たちは、このような主を仰ぎ見なければなりません。「主はすべての支配と権威を足下に置かれた方です。」これこそが使徒の持つ壮大な世界観なのです。私たちがこの驚くべき真理を知る時、心から「アーメン」と応答せずにはいられないのです。

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ 2:11)

ここでパウロは、何を語ろうとしているのでしょうか。この《11節》は、《8節》と密接に関連しています。「それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり…」(コロサイ 2:8)と記されているように、当時のコロサイ教会には二つの有害な勢力が侵入し、主の民を誘惑し、混乱に陥れていたのです。その一つは、人間の言い伝えに従うよう迫る勢力であり、もう一つは、この世のもろもろの霊に従うよう促す勢力でした。前者は「割礼派」とも呼ばれ、後者は世の哲学を重視する者たちだったのです。では、「割礼派」とは何でしょうか。私たちはすでにガラテヤ書とエペソ書の学びの中で、これについて詳しく見てきました。割礼派とは、神の御子をユダヤ主義的な教え、教訓、そして教義の枠組みの中に閉じ込めようとする人々のことです。ユダヤ教には、遵守すべき季節や祭祀法、伝統が数多く存在します。これらすべてを守ることを、一言で「律法を守る」と表現します。そして、その律法の核心であり、究極的な象徴として「割礼」を受けることが求められるのです。この割礼を受けなければ救いに至ることはできないと主張する人々を「割礼派」と呼びます。そして今、この割礼派がコロサイの教会の中にまで入り込んでいたのです。それに対してパウロは、真の割礼とはキリストの割礼であり、信徒たちはすでにキリストの割礼を受けているのだと、力強く語っているのです。

割礼派は、人の手による割礼を受けることが救いに不可欠だと主張しました。しかし、使徒はこの主張を断固として退けたのです。救いは神様の完全な恵みによってのみ可能となるものだからです。私たちは神の御子を通してその愛を心に受け、その愛を口で告白することによって救われるのであって、人間の行為によって救いを得るのではありません。しかし割礼派は、人の手による割礼を受けなければ救いに与ることはできないと固執し、ユダヤ主義的な伝統と教えの枠組みの中に、神の御子による壮大な救いの計画を閉じ込めようとしたのです。使徒パウロは、このような試みをことごとく否定し、人の手による割礼の必要性を大胆に撤廃しました。これは当時としては、極めて衝撃的で革命的な宣言でした。パウロは、キリストの死、流された血潮、そして十字架の贖いこそが、人類の救いには余りある十分な代価であると力強く主張したのです。私たちはキリストの尊い血潮によって贖われ、大胆に聖所に入ることを許された者たちなのです。すでにキリストにあって、救いは完全に成し遂げられているのです。

パウロはここで重要な真理を語っています。割礼には二つの種類があります。一つは人の手で行う割礼であり、もう一つは人の手によらない割礼です。パウロは、あなたがたは後者の割礼を受けたと宣言しているのです。この割礼は救いのしるしを意味しています。すなわち、私たちの救いは自らの手によるもの、つまり人間の行為によって得られたのではなく、キリストの恵みによって与えられたということです。ここで「肉のからだを脱ぎ捨てて」と表現されているのは、肉の罪から解放されたことを意味しています。パウロは、これこそがキリストによって与えられた真の割礼であると力強く証言しているのです。

「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神様の力を信じたからです。」(コロサイ 2:12)

パウロは、ここでバプテスマの深い意味について語っています。すなわち、私たちはバプテスマにおいてキリストとともに死に、そしてキリストとともによみがえったというのです。この驚くべき救いの出来事が、クリスチャン一人ひとりの内に実現したのです。では、バプテスマの儀式とは何でしょうか。それは、すでに救われた者の新しい身分を公に宣言する儀式なのです。人がバプテスマの儀式を通して救われるのではありません。救いの出来事は、すでにその人の内に起こっているのです。バプテスマの儀式は、その人がすでに罪から解放され、新しい命に生きる者となったことを、目に見える形で確証するものなのです。つまり、儀式それ自体に人を救う力があるのではなく、人の手による行為によって救いが得られるわけでもないのです。これこそが、キリストの割礼であり、真のバプテスマの本質なのです。だからこそ、最も大切なことは、キリストにあって生きることなのです。それゆえにパウロは、「キリストにあって堅く生きなさい」と、私たちに強く勧めているのです。

「背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、」(コロサイ 2:13)

私たちは背(そむ)きの中にあり、肉の罪によって死に至っていた者でしたが、神様は私たちをイエス様とともに生かしてくださいました。そして、私たちのすべての罪を完全に赦してくださったのです。私たちがキリストの割礼とバプテスマを受けたということは、まさにキリストへの信仰を通して救いに与ったことを意味しているのです。私たちの救いは、いかなる儀式を行うことによっても得られるものではありません。そこにはまずキリストがおられ、信仰と恵みが先立っているのです。この救いは、神の御子が地上に来られ、私たちの罪を贖うために死んでくださったことによって実現したのです。

「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書(さいむしょうしょ)を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2: 14)

神の御子が、全人類の罪の代価を宇宙的スケールで支払われたのが十字架です。その尊い血潮の代価によって、私たちは贖われたのです。使徒パウロは、この真理を力強く、そして繰り返し語り続けています。「罪には罰が伴う」という律法の原理の中に閉じ込められている人々には、恵みによる贖いの真理を理解することが難しいのです。ユダヤ人は「罪を犯した者は必ず罰を受けなければならないはずなのに、どうして罰を受けることなく罪から解放されることができるのか」と問いかけました。この挑戦的な質問に対して、パウロは「これは完全に合法的なことなのです」と応答します。それだけでなく、これは実は彼らの信仰の伝統の中にすでに啓示されていたことなのだとパウロは答えました。ユダヤ教の中には「scapegoat」(贖罪(しょくざい)の山羊(やぎ))の儀式が存在していました。イエス様も、エマオへと向かう二人の弟子たちに出会った際、律法と預言の書を開いて彼らに教えられました。そしてこの「贖罪の山羊」の儀式を通して、ご自身の死の深い意味を示されたのです。それによって彼らの心は熱く燃え、彼らの目が開かれ、主イエスを認識することができたのです。

「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし…」という箇所で、パウロは律法について語っています。律法が存在するところには必然的に罪が顕わになり、その罪が私たちの心を鋭く突き刺します。そして、罪が存在するところには必ず死と滅びと刑罰が伴うのです。つまり、律法は私たちを自由にするどころか、むしろ私たちを死へと導くものなのです。しかし、イエス・キリストによってその死の力は完全に打ち破られ、無効にされたのです。《1コリント15書》 で使徒パウロは、「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(Iコリント 15:55)と、死を嘲るように宣言しています。イエス様がすべての死の力を十字架に釘付けにされたからです。その結果、もはや律法の条文は私たちを束縛することができなくなりました。主が十字架に釘付けにされることによって、私たちは真の自由を得たのです。

それなら、旧約(古い契約)が厳然と存在しているにもかかわらず、どうして新しい契約を語ることができるのでしょうか。律法という古い契約書があるのに、それを勝手に無効にすることなどできるのでしょうか。この根本的な問いに、私たちは答えなければなりません。イエス様は律法を破棄されたのではなく、それを完全に成就されたのです。イエス様が贖いの子羊となり、すべての律法の要求する代価を完全に支払ってくださったのです。毎年の過越祭には、数十万人のユダヤ人たちがエルサレムに集まり、神殿で犠牲を献げました。牛がなければ羊を、羊がなければ鳩を捧げて、その血を神殿の祭壇の上に振りかけたのです。その血は流れて、オリーブ園につながる谷に溢れ出ました。イエス様はその血の河を渡り、ゲツセマネの園に入られました。そしてそこで捕らえられ、十字架につけられ、死なれたのです。ヘブル書は、神の御子の死によって人類の罪の代価が支払われたことを、明確に説明しています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(ヘブル 10:10) /「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」(ヘブル 10:14) /「17『わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』と言われるからです。18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。」(ヘブル 10:17-18) いけにえとは、代価を支払うものです。それゆえに、それは完全な合法性を持つのです。イエス様がいけにえとなることによって、私たちの罪の代価は完全に支払われました。つまり、律法が要求することを主が完全に成し遂げられたのです。十字架は古い契約(律法)を完全に成就したものであり、新しい契約は古い契約を破棄したのではないのです。

イエス様は聖なる贖いの小羊となってくださり、それによって私たちは罪の完全な赦しを受けることができました。神様と人間の間を隔てていた幕は引き裂かれ、私たちは大胆に聖所へと入ることが許されたのです。今や私たちは、神様を恐れることなく、「アバ、父よ」と呼びかけることができるようになりました。それゆえにパウロは、私たちを責め立てていた債務証書(律法)が取り除かれたと宣言しているのです。なぜなら、イエス様が十字架の死と復活によって勝利されたことにより、自由を得た者たちには、もはや古い契約である律法は必要なくなったからです。そのすべてを取り除くために、主は十字架を背負ってくださったのです。

「そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」(コロサイ 2:15)

ここでパウロは再び、支配と権威について言及しています。先に説明したように、この世の権力者たちと、彼らと結託して活動する悪しき霊の組織が存在するのです。主はそれらの政治的権力と支配と権威を打ち砕き、その正体を白日の下にさらされました。これは、主が罪の権勢を完全に打ち負かされたことを意味しているのです。

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。」(コロサイ 2:16)

食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月、安息日(あんそくび)を守ることは、すべてユダヤ教の律法を指しています。律法には数多くの遵守すべき規定がありました。毎年、毎月、そして毎週、欠かさず守らなければならないユダヤ教の儀式が定められていたのです。特に祭祀に関する律法は膨大な数に上りました。パウロは、これらの規則や儀式を守っていないからといって、互いを裁いたり、批判したりしてはならないと教えているのです。

「これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(コロサイ 2:17)

それらすべての規則(きそく)や儀式は、神の御子が来られて成し遂げられる世界の影に過ぎなかったのです。今や、御子が実体をもって来られました。その御子が十字架を背負い、すべての罪の完全な代価を支払ってくださったのです。ですから、それまでの影のようなものはすべて、清算されたのです。

「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。…」(コロサイ 2:18a)

パウロは今、御使い礼拝を行う者たちについて警告を発しています。コロサイ教会の中には、過度な御使い礼拝の儀式が存在していたようです。ヘブル書において、御使いはすべて「奉仕する霊」と呼ばれています。天の御国には明確な秩序があります。最上位に神様がおられ、その次に神様の子供たちが位置し、そして御使いたちがいるのです。御使いは奉仕する霊、すなわち天の使者なのです。この位階秩序を理解せずに、御使いを過度に崇拝するという誤りがコロサイ教会の中に見られたため、パウロはそれを厳しく指摘しているのです。この警告の言葉は、今日を生きる私たちにとっても非常に重要な意味を持っています。今日の多くの宗教を見てください。実に多くの宗教が様々な霊に仕え、多くの霊(神々)を崇拝しているのではないでしょうか。教会の中にさえ、このように霊を崇拝する誤りが見られます。私たちは、このような間違った教会があるという事実から目を背けてはなりません。使徒パウロは「あなたがたは罪から解放された神の子どもではないのか。それなのに、どうしてそのように御使いを過度に礼拝するのか」と問いかけているのです。確かに、御使いは神のしもべとして聖なる存在であり、尊い存在です。しかし、「あなたがたはそれ以上に尊い存在なのです」という使徒の驚くべき宣言に、私たちは耳を傾けるべきです。今、この使徒は、クリスチャンがいかに尊い存在であるかを力強く宣べ伝えているのです。

「彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、」(コロサイ 2:18b)

コロサイ教会の信徒たちは、天使の幻を見、霊的な現象を経験したのです。しかし、彼らはそれらに過度に頼りすぎ、そのために高慢になってしまったようです。

「かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神様に育てられて成長していくのです。」(コロサイ 2:19)

しかし、最も大切なことは、かしらにしっかりと結びつくことです。このかしらとは誰でしょうか。かしらはキリストです。使徒パウロは、キリストを中心とした秩序について語っているのです。かしらであるキリストに堅く結びつくことこそが、何よりも重要なのです。他の何物も私たちを贖うことはできません。体全体が頭から節々と筋を通して栄養を受けて成長するように、私たちもかしらであるキリストに結びついているメンバーとして、キリストと一つとなる時、神様が私たちを確かに成長させてくださるのです。ですから、皆さん、ただキリストにあってしっかりと立ってください。では、お祈りします。Ω

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The Steadfast Love of the Lord

The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

恵みと平安があなたがたにありますように。

2025年07月28日

*本文:テサロニケ人への手紙第一 1章1節   †今日から《第一テサロニケ人への手紙》の講解を始めたい...

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。

2025年07月21日

*本文:コロサイ人への手紙 3章18-4章18節   †《コロサイ1章》にがキリスト論を語っているとすれ...

あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい

2025年07月14日

*本文:コロサイ人への手紙 3章1-17節   †パウロは、《コロサイ1章》でキリスト論について深く...