2025年05月05日
「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ 3:17)
「兄弟たち。」これは深い愛情が込められた温かな呼びかけです。この呼称には、使徒の切なる思いが込められています。使徒がこのように愛を込めて呼びかける背景には、明確な理由がありました。ここで、使徒は手紙の終盤に差し掛かっていましたが、結びの言葉を記す前に、ピリピ教会内の問題を解決する必要があったのです。ピリピ教会の内情を見てみましょう。この教会の中に、今、深刻な争いが生じていました。皆さんも、誰かとの間に対立や争いといった問題を抱えているでしょうか。もしそうであれば、この箇所に目を留めてください。
すでに触れましたが、ピリピはマケドニアの主要都市でした。パウロが最初にこの街を訪れた際、シナゴーグが存在しなかったため、川辺に赴きました。ユダヤ人の伝統では、10人の成人男性がいなければシナゴーグを建てることができず、シナゴーグがない場合には、人々は川辺で祈りをささげる習慣がありました。そこでパウロは川辺に向かい、そこで商売を営んでいたリディアに福音を伝える機会を得ました。その時、リディアと共に川辺で祈り、福音に耳を傾けた女性たちがいました。彼女らを中心としてピリピ教会は設立され、彼女らによって教会は導かれていったのです。ところが、その教会を主導的に担ってきた信徒たちの間に何らかの対立が生じたのです。彼らの名は4章に記されています。具体的な経緯は記録されていませんが、二人の名前は明確に記されています。二つの派閥に分かれての対立であったようですが、少なくともこの二人の間に確執があったことは疑いありません。この対立は、使徒が深く憂慮するほどの重大な問題だったと思われます。今、使徒はこの手紙を通して、この対立を解消しなければならなかったのです。そのために、これまで崇高で深遠な真理を説き続けてきたのです。そして、愛情を込めて彼らに呼びかけながら、彼らの心の扉を叩いているのです。
「兄弟たち。私に倣う者となってください。」使徒は「私に倣う者となりなさい」と語っています。このように人生の模範となる師を持つことは、この上なく素晴らしいことです。そして、その師が自らの人生を模範として示すことも、実に尊い姿勢です。東洋にも西洋にも多くの師表(師匠)が存在しましたが、「私の人生に倣いなさい」と言えるような境地に達した人物を見出すことは容易ではありません。しかし、パウロは「私に倣いなさい。私が歩む人生に倣って、あなたがたも生きなさい」と、確信を持って語っているのです。
「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」当時、使徒とその同行者たちを模範とし、その生き方に倣って生きる人々がいました。パウロは、ピリピの信徒たちにも同様の歩みを求めています。
「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(ピリピ 3:18)
この手紙を書きながら、パウロは涙を流したことでしょう。教会の分裂が使徒の心を深く痛めていたのです。使徒は、教会内に、キリストの十字架の敵として生きる人が多くいると指摘します。それは互いを憎み、分裂を引き起こす人々のことです。真に十字架を見つめて生きる人は、決してそのような生き方はしないからです。争いを起こす人々は、十字架の意味を忘れた人々です。彼らはキリストの内に、またその恵みの内に生きているのではなく、むしろキリストの十字架の敵として生きているのです。そして、そのような人が数多くいるというのです。
「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(ピリピ 3:19)
使徒は厳しい言葉で「その人たちの最後は滅び」だと断言します。「彼らは欲望を神とし」とは、教会内に自分の欲望を満たすことだけを目的とする人々がいるという意味です。これは非常に痛烈で直接的な表現です。教会には多くの働き手がいますが、使徒は自己の欲望だけを追求する人々に対して、この厳しい警告と審判の言葉を投げかけています。彼らの行き着く先は滅びだと断じているのです。
「恥ずべきものを栄光として」という表現は、彼らが得る栄光が実は恥ずべきものだということを示しています。しかし問題は、彼らがその恥ずべき性質に気付かずに、自己を誇っていることです。罪を犯しながらも、それを罪と認識せず、むしろ誇りとして生きる人々が教会内にいたのです。このようなピリピ教会の状況を、使徒はどのように知り得たのでしょうか。《ピリピ書2章25節》には、エパフロディトがピリピから使徒の元に来て、その世話をしたことが記されています。パウロはおそらく彼を通じて、ピリピ教会の詳細な状況を知ったのでしょう。もちろん、他の情報源もあったことでしょう。
「地上のことだけを考える者たちです。」滅びに向かう者たちは、地上のことだけを考えて生きていると使徒は指摘します。これは、人々が過度に世俗的な生き方をしているということを意味します。コロサイ人への手紙では、パウロは「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません」(コロサイ 3:2)と語り、さらに5節において、「地にあるもの」とは何かを具体的に示しています。「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です」(コロサイ 3:5)。使徒は、これらを徹底的に取り除くように勧めています。このように、パウロはピリピ教会において、世的なものを愛し、世に染まり、世のものを追い求めて生きる人々に対して、断固たる態度で語りかけています。
「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ 3: 20)
私たち信仰者には天の市民権が与えられており、天国が保証されています。ヘブル人への手紙では、私たちの真の故郷が天国であると語られています。「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです」(ヘブル 11:16)。私たちは天の故郷へと向かう旅人なのです。ここで重要なのは、私たちに天の市民権が与えられているということ、そして私たちがそこで救い主イエス・キリストとの出会いを待ち望んでいる者たちだということです。
「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ 3:21)
これは復活についての教えです。パウロは常に強い復活信仰を持っていました。主が必ず私たちを復活という栄光の座へと導いてくださるという確信です。ローマ書でも「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ 8:30)と語られているように、私たちは最終的に栄光を受けることが約束されています。
復活については、《第一コリント人への手紙15章》で使徒パウロが詳細に記しています。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います」(Ⅰコリント 15:41)とあるように、復活後の栄光が人それぞれ異なることが示されています。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ」(Ⅰコリント 15:42)と、現在の朽ちゆく肉体が、朽ちることのない体に変えられることを教えています。
「43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(Ⅰコリント 15:43-44)。
「土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。49私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです」(Ⅰコリント 15:48-49)。
このように、パウロは私たちに確かな復活があることを教えています。彼自身、この復活の希望を持って生き、自分の体が復活の日に御霊に属する体に変えられることを強く待ち望んでいました。パウロはこの復活信仰の強力な信奉者であったがゆえに、機会あるごとに、この復活について私たちに教え続けたのです。
「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。」(ピリピ 4:1)
パウロは「私の愛し慕う兄弟たち」と呼びかけています。彼がどれほど深く彼らを愛し、慕っているかが伝わります。パウロは数多くの教会を設立し、多くの人々を育て、キリストにある交わりの中で、このような温かい心を持って彼らと接していました。皆さんの中にこのような深い絆で結ばれた仲間がいるなら、皆さんも幸せな人でしょう。
使徒は彼らを「私の喜び、冠よ」とも呼んでいます。彼らのことを思い出すだけで喜びに満たされる、まるで恋する人のような気持ちを表現しているのです。これは実に幸せな関係性を示しています。パウロは厳しい指摘をする前に、まず愛を確認する言葉、相手を励まし、力づける言葉を語り、さらに真理を示すことで彼らの信仰を強めます。そしてその後に、彼の伝えたい本質的なメッセージを、断固として、鋭く、直接的に語るのです。
「主にあって堅く立ってください。」ここでの「立つ」というギリシャ語「στήκετε(stēkete、ステケテ)」は、兵士が陣地を守る時のように、敵を見据えて毅然と立っている様子を表します。霊的な戦いにおいて、私たちは眠っていたり、倒れていたり、力が抜けている状態であってはなりません。常に主にあってしっかりと立っていなければならないのです。しかし、当時のピリピ教会はむしろ逆の状態にありました。そのため使徒は、まっすぐに立つように勧めているのです。ピリピの信徒たちは、長い葛藤と争いの中で疲れ果て、苦しい状況にありました。だからこそ使徒は「主にあって堅く立ってください。愛する者たち」と呼びかけているのです。
「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。…」(ピリピ 4:2a)
パウロはここで、教会内で対立している二人の指導者、ユウオディアとシンティケの名前を挙げています。彼らは二つの派閥の代表的な人物でした。パウロはこの手紙を書く前に、それぞれと個別に話をしたと思われます。葛藤のある人々と相談する際は、このように個別に対話することが賢明です。具体的な会話の内容は私たちには分かりませんが、私たちはここから、葛藤がある時には個別に相談するという知恵を学ぶことができます。
「…あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。」(ピリピ 4: 2b)
パウロは、主にあって同じ思いを持つように勧めています。この言葉から、二つの派が異なる思いを持っていたことが分かります。互いに相反する考えを抱き、憎しみ合い、対立している状態だったのです。
「そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、…」(ピリピ 4:3a)
この手紙は公教会で読まれることを前提に書かれており、使徒は公教会に対して語りかけています。ここで言及される「真の協力者」とは、複数の人々を指しています。それはパウロの近くにいたテモテや、クレメンス(Clement)、そして初めから共に働いてきた福音の同労者たち、教会で共に奉仕してきたすべての同労者たちを含んでいるのでしょう。パウロはこれらの人々を「真の協力者」と表現しています。
ここで手紙の調子が変化します。パウロは二人を厳しく叱責するかのように思わせつつ、真の協力者(companions)に対して、この二人を助けるようにと懇願しています。この二人は、多くの苦難と逆境の中にあっても、福音のためにクレメンスや他の同労者たちと共にパウロを支え、福音宣教に尽力した人々でした。だからこそパウロは、彼らを助けてほしいと願い出ているのです。これこそが真の勧めです。ここには、葛藤を解決しようとする使徒の深い思いやりが表れています。葛藤を解消するためには、まず彼らが立ち上がる力を与えなければなりません。彼らの足首に力が宿るようにしなければならないのです。そのためには、彼らを指さしたり、罵ったり、非難したりすることは避けるべきです。そのような行為は、彼らをさらなる絶望に追い込むだけです。
《ガラテヤ人への手紙6章》にも同様の教えがあります。「1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」(ガラテヤ 6:1-2) 兄弟が過ちを犯したときには、彼の重荷を背負うこと、すなわち彼の苦しみを理解し、共に歩むことが求められています。これは、その人を深く理解せよということです。争いの中にある人々の苦悩は計り知れません。心と心がぶつかり合う状況は、どれほど苦しいものでしょうか。すでに厳しい環境の中に置かれていた教会において、さらに互いに争うことになれば、人の心はどれほど重荷を負うことになるでしょうか。
私たちは、使徒がこの葛藤をどのように捉え、どのようにアプローチしているかに注目する必要があります。使徒が求めている解決策とはどのようなものでしょうか。それは、他の人々に協力を求め、葛藤する者たちに力を与えてもらうことです。公教会で手紙が朗読される、その場にいた二つの派の人々は、きっと心を動かされたことでしょう。使徒は、葛藤する人々の心の苦しみを深く理解していたからこそ、彼らを助けるように勧めているのです。真の和解は、心を共有することから始まります。使徒はピリピ書2章で「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、抱きなさい」と語り、さらにキリストの心を抱いた使徒である「私に倣う者となってください」(ピリピ 3:17)と語ったのです。
真の和解はどこから来るのでしょうか? 私たちの心が一つになるには、どうすればよいでしょうか? それは、単に二人が横方向に努力を積み重ねるだけで成し遂げられるものではありません。夫婦間の葛藤も兄弟間の葛藤も、二人だけでは解決できません。では、どうすればよいのでしょうか。私たち一人ひとりが「主」を見上げる必要があります。そして、模範的にこの道を歩んでいる使徒の姿に学ばなければなりません。今、その使徒はどこにいるのでしょうか?牢に閉じ込められています。使徒は、福音を伝えるために生涯をかけ、命を尽くしてきました。福音を伝え終えた今、彼は拘束されているのです。この偉大な使徒が、主のために生き抜いたその生涯と、使徒が彼らに抱いている深い愛が、彼らの心に入り込むとき、心の扉が開き、和解が実現します。そうして彼らは、心を一つにすることができるのです。皆さん、私たちは、この使徒がどのようにカウンセリングを行い、葛藤を癒してきたのかを深く学ぶ必要があります。そして、使徒の心に倣い、その姿勢を私たちも受け継ぐべきなのです。
使徒は、双方に力を与えるための助言を行ってきたはずです。代表的な女性たちにもそれぞれ助言し、力づけたに違いありません。しかし彼らにはそれでも力が足りなかったようです。そのため使徒は、同労者(companions)に彼らを導いてくれるよう呼びかけています。彼女たちのためにさらに祈り、力を与え、重荷をともに負うことを求めているのです。互いに重荷を負い合うことで、魂が軽くなり、狭かった心が広がり、心にゆとりが生まれるのです。
「…この人たちは、いのちの書に名が記されている。」(ピリピ 4:3b)
ここで、使徒は驚くべきことを語っています。彼らを助けるべき理由、それは彼らの名前が「いのちの書」に記されているからだというのです。
《ヨハネの黙示録》には、「いのちの書」に関する御言葉が記されています。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す」(黙示録 3:5)、「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた」(黙示録 20:12)、「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録 20:15) 救われた者の名は天の「いのちの書」に記録されており、そこに記された名前は決して消されることがありません。これは天の国の市民権につながるものです。
使徒が私たちに伝えているのは、私たちは天の都に向かう同じ仲間であり、兄弟姉妹だということです。私たちは天の市民権を持つ者として、その名前がいのちの書に記されているのです。ここで皆さんに問いかけます。皆さんの中に対立する人がいるでしょうか。互いに憎み合っている人がいるでしょうか。この使徒の言葉を心に留めましょう。私たちが救われ、主の恵みによっていのちの書に名前が記されているという事実を忘れてはなりません。だからこそ、私たちは互いに温かく励まし合い、助け合うべきなのです。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ 4:4)
これは多くの人々に愛される御言葉です。聖書にサインを求められる時、私はこのフレーズを幾度となく記してきました。「喜びなさい。」これは命令です。“Rejoice in the Lord always.”「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」なぜ私たちは喜ぶべきなのでしょうか。それは私たちが天国の市民であり、天国への希望を持つ者であり、さらには私たちの名前がいのちの書に記されているからです。実は、この「いつも喜びなさい」という深い言葉は、教会内の争いという厳しい現実の中で使徒が記したものでした。
「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」(ピリピ 4:5)
次に「寛容な心」という言葉についてですが、ここでの意味は、“Tolerance”(容認)に近いものです。時として、私たちは他者から理解されず、相性の悪さを感じることがあります。そのような時、どのように対応すべきでしょうか。使徒パウロは第一コリント人への手紙6章7節でこう語っています。「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか」(Iコリント6:7)。これは、不正を受けたとしても、相手を訴えることを控えよという教えです。つまり、不正な扱いを受けたからといって、同じように報復してはならないということです。使徒は、教会内の争いを世俗の裁判所に持ち込むことを戒めながらも、この寛容の精神を説いたのです。
《ローマ書12章》では、クリスチャンの生き方についてさらに具体的に教えています。
「14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。20 次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火(すみび)を積むことになるからだ。』21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ 12:14-21)。
このように使徒パウロは、善をもって悪に打ち勝つ方法を具体的に示しているのです。
今、ピリピの教会には二つの対立する勢力が存在しています。この葛藤の渦中にある両者に対して、パウロは何を説いているのでしょうか。それは寛容な心を持つことです。この心を持ってよく忍耐するようにということです。それは、「歯には歯を、目には目を」という報復の連鎖を断ち切り、自らの手で復讐せず、報復を控えることを意味します。たとえ不当な扱いや損害、迫害を受けることがあっても、寛容(Tolerance)の心を保ちなさいという教えです。忍耐しながらも相手と同じ次元に落ちることなく、自分の本分を守り、むしろ優しい心で相手に接すること、これこそが真の寛容な心なのです。
教会の歴史を振り返ると、この御言葉の重要性が浮き彫りになります。教会史を紐解くと、この教えがいかに重要なものであったかがわかります。宗教改革後、数えきれないほどの人々が互いを憎み、戦い、殺し合いました。そんな中で、パウロの言葉は驚くべき真理を示しています。「あなたがたは対立していますか?不公平な扱いを受けていますか?相手が野蛮な方法であなたを傷つけてきますか?今こそ忍耐と寛容をもって接しなさい。それを実践しなさい。主が来られる時が近いのです。」
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ 4:6)
たとえ私たちの間に葛藤があっても過度に心配せず、不当な扱いを受けても悲しみに沈まず、迫害を受けても喜びを見出し、どのような状況でも感謝の心をもって祈り、願い事を神様に届けなさい、と使徒は勧めています。ここでは特に「感謝をもって」という点が強調されています。私たちが受ける恨み、被害、苦痛に囚われるのではなく、与えられた恵みを思い起こし、感謝すべきことを見出し、その感謝の心をもって神様の前に出るべきだということです。そして、その上で私たちが求めるべきことを神様に願い求めなさいと教えています。
「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ 4:7)
ここでの「すべての理解を超えた神」という表現は、神様がすべてを知り、正しく裁く方であることを示しています。神様がすべてを解き明かしてくださるからこそ、私たちはすべてを神様に委ねることができるのです。
神様は平安の神です。その平安が、イエス・キリストにあって私たちの心と思いをすべて守ってくださる、とパウロは語っています。これは、あなたの恨みをすべて晴らし、必ず勝利をもたらすという約束ではありません。むしろ、あなたの心と思いを守るという、より美しく、深い約束なのです。皆さんが葛藤に直面するとき、どうかこの言葉を思い出してください。この使徒の教えを心に留め、共に分かち合えることを心から願っています。
「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値(あたい)することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」(ピリピ 4:8)
使徒は、クリスチャンが持つべき八つの重要な徳目を挙げています。
1) 「すべて真実なこと」真実の対極にあるのは偽りです。私たちは偽りのない、真実に基づいた人生を生きなければなりません。
2) 「すべて尊ぶべきこと」NIV訳ではこれを“noble”(高貴な)と訳しています。高貴さの反対は下品さです。私たちの行いすべてにおいて、高貴であるべきなのです。
3) 「すべて正しいこと」これは正義を指します。私たちは正義に基づき、正しく、公正に生きなければなりません。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言える生き方を目指すべきです。通常、正義はどのようにして成立するのでしょうか。「目には目を、歯には歯を」という形で報復し、ゼロに戻すことで成立します。これが律法による義です。
しかし、義には二つの種類があります。一つは律法による義、もう一つは「別の義」と呼ばれるものです。この二つは何が違うのでしょうか。それは次元の異なるものなのです。律法が罪と罰の等式であるのに対し、「別の義」は罪と赦しの等式なのです。《マタイの福音書》には、「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ 5:43b-44)とあります。これは次元の異なる天国の倫理であり、イエス・キリストの教えです。
犠牲とは何でしょうか。それは自らが損失を被ることです。これは等価(等價)ではないのです。十字架の知恵もまた、等価ではありません。十字架は犠牲であり、損失を受け入れることです。だからこそ、十字架は世の目には愚かに映ります。この等価は、受けた通りに返すことでも、被害に応じて報復することでもありません。主は、争う者たちに「赦さなければならない」と諭されるのです。なぜ赦さなければならないのでしょうか。それは私たちが先に赦されたからです。だからこそ、主の祈りには「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。(=私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します)」 (マタイ 6:12)という言葉があるのです。
パウロがここで語る義とは、福音を通して私たちに伝えられた義、すなわち主が私たちに示された義です。これは主が成し遂げられた義であり、「信仰による義」です。私たちはこの義を体現して生きていかなければならないのです。
4) 「すべて清いこと」この言葉は、私たちが世に染まったり、汚されることなく、清く生きる必要性を説いています。《第二テモテへの手紙2章》では、家の中には尊いことに用いられる器と、卑しいことに用いられる器があると語られています(第二テモテ2:20-21)。では、どのような器が尊い器なのでしょうか。それは主が用いられる器です。主に用いられる器となるためには、聖なる器であることが求められます。《第二コリント人への手紙4章7節》では、私たちを土の器に例えています。しかし、この土の器に宝が入れられているのです。金の器に石を入れれば石の器となり、土の器に金を入れれば金の器となるということです。人間を器に例えるのはギリシア的な表現方法です。ギリシア人は人間を何かを入れる器として捉えました。使徒パウロは、何よりも大切なのは器が清らかでなければならないと強調しています。主が用いられる器は、清い器でなければならないのです。
5) 「すべて愛すべきこと」教会は世の中から尊敬されるべき存在でなければなりません。さらに深くは「愛される存在」となるべきです。
6) 「すべて評判の良いこと」教会は賞賛に値する存在でなければなりません。初代教会がまさにそうでした。使徒の働き2章に描かれる教会の姿がそれを示しています。「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」(使徒 2:47)。
7) 「何か徳とされること」この徳“Virtue”とは何でしょうか。ギリシャ語では「ἀρετὴ(aretḗ、アレテ)」と表現され、“goodness”(善)、“excellence”(素晴らしさ)、“manliness”(男らしさ)といった意味を持ちます。これは風格があり、男性的な強さを想起させる言葉です。道徳的な優越性と完全性を表す言葉です。これこそが、ここで語られる「徳」の本質です。私たちの内にこのような徳を育まなければなりません。
8) 「称賛に値すること」この「称賛」とは、「称賛に値する」(praiseworthy)ことを意味します。私たちは称賛に値する生き方を目指し、そのような人となるべきです。そうすれば、争いは自然と消え去ります。そして、互いが互いを高め合うようになるのです。先に使徒が語ったように、私たちは主にあってしっかりと立つようになります。その結果として、世からも称賛を受けるようになるのです。
「あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ 4:9)
この箇所は、一つひとつ丁寧に読み解きながら学ばなければなりません。まさに、噛み砕くように理解を深めていく必要があるのです。使徒は先に「私に倣う者となってください」と語り、ここでさらに「あなたがたが私から学んだこと」と語っています。そして再び強調します。「受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。」使徒から学び、受けたこと、見たことを日々実践し、体現していくようにと使徒は私たちを導いています。「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」私たちがこの教えに従って生きるとき、平和の神が確かに私たちと共にいてくださるのです。なんと美しい手紙でしょうか。この手紙は、ここで一つの区切りを迎えます。偉大な真理が、美しい倫理と具体的で実践的な人生の教えという形で結ばれています。
この後に続く言葉は、短い追記に過ぎません。しかし、その言葉を通して、私たちは使徒がどのように生きたのか、その深遠な人生観に触れることができます。実に美しいです。私たちは来週の日曜日にその部分を学び、それをもってピリピ書の学びを終えることになります。
新しい月、5月を聖徒の皆さんが宣教のための情熱と一心を持って熱心に奉仕し、豊かな実を結ぶことを願っています。お祈りします。